夢の解釈の続き
古代の人々も、夢内容が生活感を漂わせているということについて
何かまったく別の考え方をしていたわけではない。ここではラーデンシュトックから引いておこう。(クセルクセスは、ギリシャ領土へと兵を進めようとしたとき、良い忠告を得てこれを思いとどまった。しかし、夢を見るたびに、この野望にまたもや火がついてしまったので、分別ある老ペルシャ人の夢解釈家アルタバノスは、ずばりクセルクセスはその人に向かって、夢というものは、人間がすでに覚醒の間に考えていたことのほとんどを含んでいるものだと言って聞かせたという)。
ルクレティウスn理論詩(物の本質について)には、次のような箇所がある。
<只今熱意を込めて没頭中のことがあれば、あるいは先般心を占めていたが、今でもまだ執着していることがあれば、夢の中とて現れてくるのは同じもの。法律家は法律を進め、将軍は軍を動かし敵を血祭りに上げる、云々)。
キケロ(占いについて)第二巻)も、後年先ほどのモーリが述べたようなこととまったく同じようなことを言っていた。(われわれが起きている間に考えたり為したりしたことの名残が、その時ここぞとばかりに心の中を騒ぎ廻る)。
述べてきた如く、夢生活と覚醒生活との関係をめぐるこれら二つの見方は、実のところ相容れないものである。
したがって、このあたりでヒルデブラントによる次のような議論に入れておくべきだろう。
彼の意見では、夢の特性を述べようとすれば、それはもう、(一連の対立であって、すでに鋭い矛盾にまで達しているように見えるほどのもの)とでも言うしかないのである。
(これらの対立のうちに第一に挙げられるのは、夢が本当の現実生活から強く隔絶され、あるいは閉鎖されている一方で、夢と現実生活が常に互いに食い込み、かつ依存しているということである。
夢は、われわれが醒めて経験しているこの現実とは隅々まで似ても似つかぬものなので、現実生活からは乗り越え難い深淵によって隔てられてそれ自体の中に秘められたままになっている。一つの存在物とでも言いたくなるほどである。夢はわれわれを現実から連れ去り、現実生活でどんな生活をしていたかを思い出せないようにさせ、かくしてわれわれを別の世界において、これまでわれわれが辿ってきた人生とはまったく関係ない歴史の中に生きてきたかのように思わせる...)。
そこでヒルデブラントはこう説明する、眠りに入るとともに、われわれの存在全体は、その日々の実存有様もろとも、(まるで見えないし落とし戸が背後で閉まるように)、かき消えてしまい、その後は例えば、夢の中でセントヘレナ島に向かって航海し、そこに幽閉されているナポレオンに会い、えり抜きのモーゼルワインを献上する。するとこの元皇帝は心からもてなしてくれたので、そこで目が覚めて面白い錯覚が途切れてしまったことを残念に思う。
ところが夢の状況を現実と比べみるとどうか。自分はワイン商人でもなくそうなろうと思ったこともない。そもそも船旅をするとしてもセントヘレナ島などはまず目的地に選ばない。ナポレオンに対しては自分は好意を抱いたことは一度もないしそれどころか愛国心から彼をつくづく恨んでさえいる。だいたい、ナポレオンがこの島で死んだときには自分はこの世に生まれてきていなかったし、彼と個人的関係を結ぶこと自体がおよそ不可能だ。
かくしてこの夢体験は、なだらかに続き合っていたはずの生活場面の前後に余所から挟みこまれた、何らかの異物であるという風に見える。
(ところがそれでも)、とヒルデブラントはさらに続ける。
(見たといろこのちょうど反対と思えることがらも、また同様に当を得ている。このような隔絶と閉鎖の裏で、手に手をとって連携と結託が進んでいるのだ。
そもそも夢が何かをわれわれに提供しようとしても、夢はそのための素材を、現実から、そして現実の中で人間があれこれと考えた末の精神生活から引き出すしかないではないか...
。
夢はなるほどそこからとんでもない結果に至り着くことがあるかもしれないが、それでも夢は現実の世界を離れることは決してできないし、夢の紡ぎだすどんな崇高なまたはどんなあほらしい図柄も、その元になっている材料は、われわれがこの感覚世界でこの目で見たり、覚醒時の思考過程の中ですでに試しておいたりしたこと、つまりわれわれが外的内的にすでに経験済みであったことを頼りにするしかないのである。)。
続く。