Sei KIsaragiオフィシャルブログ


夢とテレパシー

2013.08.20 Tuesday[フロイトcomments (0)

上記のような標題を予告すると、所謂オカルト現象に対して興味津々の今のご時世では、ある特定の期待を掻き立てずにはいられません。それゆえ急いで、こうした期待には反論しておきましょう。私の講演からテレパシーの謎について何かを知るということはないでしょうし、私が(テレパシー)の実在を信じているか否かについてすら、はっきりしたことを教えられることもないでしょう。ここでの私の課題はごく慎ましやかなもので、どこに由来するにせよ、テレパシー的出来事がいかなる関係を夢に対してもつのか、より正確には、我々の夢理論に対していかなる関係を持つのかを探求するということです。ご存じのように夢とテレパシーの関係は大変緊密だと一般的にみなされています。私が皆さんにこれから述べる見解とは、そのことが夢に関する我々の見解をなんら変更させる必要はないということです。

今回の発表の元となる素材はごくわずかなものです。(夢解釈)1900年。執筆当時と異なり、今回は私自身の夢を材料にできなかったのは何よりも残念なことです。しかし、私は(テレパシー的)夢というものを見たことがありません。それは、ある遠く離れた場所で何か特定の事件が起こるという伝達内容を含む夢を見ないということではありません。ただし、そうした場合、事件が生じるのはまさにいまなのか、それとももっと後なのかという決定は、夢見る人の見解に委ねられるようですが、また私は、目が覚めている最中でも、遠くの出来事に対する予感をしばしば感じたことがあります。しかし、こうした予見.予感は、俗に言うように、当たらなかったのです。これらの予見等にはなんら外的現実が対応しないことが示され、したがってこれらは純粋に主観的な期待として捉えられざるを得ないのでした。

例えば私は戦争中一度、前線に赴いていた私の息子の一人が殺がれた夢を見たことがあります。夢はそれを直接告げているのではないですが、けれど見間違えようなく、夢はそのことを、w. シュテーケルが最初に言明した、周知の死の象徴法を手段として表現したのです(文献上良心的であれ!という煩わしく感じられることも多い義務をここで忽せにしないようにしましょう)。私は、上陸桟橋のもとに、陸地と水との境界に、若い兵士が立っているのを見ました。とても青ざめた風情で、話し掛けてみましたが、返事はありませんでした。

加えて、それ以外にも誤解しようのない暗示がありました。息子は軍服ではなく、スキー服を着用していました。それは戦争の何年か前、息子が重いスキー事故を起こした時に着ていたものです。息子は足台のようなものに乗って、一つの箱を前にしていました。この情況は私自身の幼年期の思い出との関連で(倒れる)という解釈をさせずにはおきませんでした。というのも、私は二歳を少し越えた頃、同じような足台に上って箱の中から何かを取ろうとして転倒し、怪我をしたことがあるからです。その傷跡は今日でも示すことができます。あの夢によって死を告げられた私の息子は、しかし、戦争の危機から無事に帰還しました。最近になって私は、災難を告げる別の夢を見ました。この小さな発表をしようと決心する直前のことであったと思います。今度はあまり隠し立てはなされていませんでした。

イギリスに住んでいる二人の姪を夢に見たのです。二人は黒い服装をし、木曜日に私達は彼女を理解した。と私に言いました。それは、今87歳になる二人の母、つまり、すでに亡くなった私の長兄の妻が死んだという意味でした。当時のことながら、ひと時胸を痛めつつ待ち受けることになりました。これほど高齢の婦人が突然死するというのはなんら驚くべきではありませんし、とはいっても、私の夢にこの事件を言い当ててはしくなど、といってはいません。しかし、その後イギリスから届いた手紙は、こうした心配を追い払ってくれました。

夢の欲望理論のことを気に掛けるすべての人を安心させるために、こうした死の夢に関しても、無意識的動機を分析によって推定し発見することは困難ではなくなっていると、一言に挿入しておきましょう。
このような報告は無価値だ、なぜなら否定的経験は、他のより非オカルト的な領域に劣らず、この場合においても何かの証明にはなりえないからだ、と異議を申し立てて、どうか私の話を中断させないで下さい。わたし自身そのことは承知していますし、これらの事例を持ち出したのも、何かを証明したりあるいは特定の態度を皆さんにこっそり押し付けようと意図するからでは決してないのです。ただ、私の素材が限られていることに対して申し開きをしたいというだけのことだったからです。

ただし、もう一つ別の事実の方はより意義深いもののように思われます。すなわち、およそ27年間分析家として活動している中で私は一度として、自分の患者が紛れもなくテレパシー的な夢を体験する場に立会ったことがないのです。私が診療していた人々は、神経を重く病んだ(高度に敏感な)性質の人々ばかりでした。その中の多くは、それまで生きてきた中から奇妙極まりない出来事を私に語り、それを支えとして謎めいたオカルト的影響の存在を信じていました。治療中の最中には災害、近親者の発病、なかんずくどちらの親の死亡といった事件がしばしば起こって治療を中断させましたが、しかし、テレパシー的な夢を手にするのに本質的に大変適したはずのこれらの偶発時がわたしにその機会を与えてくれたことは一度としてないのです。治療は半年、一年、数年以上に及ぶことがあったのにです。
この事実のおかげで私の素材はまたして制限されることになるのですが、それを説明することは、やってみたい人にお任せすることにしましょう。この事実そのもの私の発表内容に関わりがないことは、やがておわかりになるでしょう。

また、文献には豊富にテレパシー的夢が書き記されているのだから、どうしてそこから事例を引き出してこないのかと質問されたとしても、私としては戸惑うことはありません。私はアメリカとイギリスの(心霊研究協会)のメンバーとして、そこで出版されているものをその気なれば自由に利用できますので、たいして事例を捜しまわる必要はなかったでしょう。

そこでの報告例においては、夢を分析的に評価、検討するということは一度として試みられていませんが、その評価、検討こそ、我々の関心を第一に呼ぶものなのです。他方、皆さんにはやがておわかり頂けると思います、今日の発表の意図するところはたった一つの事例によっても満足させられるものです。
それゆえ、私の素材は、ドイツに住む二人の文通相手から受け取った、たった二つの伝達からなるにすぎません。その人々と私は個人的に面識があるわけではありませんが、お名前と住所は教えてもらっています。 また、書き手であるその方々にこちらを誑かそうという意図があるとは、ほんのこれっぽちも思われません。二人のうちの一人とは、その文面の内容はこうです。

以下の夢は大変興味深いので、あなたに研究の素材としてお伝えすることにします。まず述べておかなければなりませんが、結婚してベルリンで暮らしている私は、娘には継母に当たる(二番目)の妻とともに、そのころベルリンに初めてのお産が予定されていた。11月16日から17日にかけての夜、私は夢を、それもこれまでなかったほど迫真的な夢を見ました。妻が双子を産んだ。赤いほっぺをした元気ではちきれそうな二人の子が妻のベッドに並んでいるのがわかったが、性別ははっきりしない。淡いブロンドの子ははっきりと私似で、それに妻似のところが混じっていた。妻はブロンドだが、私は妻に、(お前の)子の栗色の髪も後になるときっと赤毛になるよ、と言った。妻は洗濯機でマーマレードを煮ていた(これも夢)が、二人の子はよちよち鍋の中を這いまわり舐めまわしていた。
以上が夢です。続く。

如月のここまでの見方。
フロイトは夢という研究とテレパシーとの関連性を結びつけたい思いがあるようだ鋭い見
識眼ですが、どうも無理があるように思える。夢=テレパシーとは限らないし、事実を自分のみの事実として認めないものとして根拠づけをどこかで見出そうとしているが、もしかするとテレパシーという言葉の現代との意味とのギャップなのか。この辺は宗教的概念が嫌いな故か、少し捉え方が如月とはやや異なります。

続く。


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